私はなぜジャズ人口のほとんどの人がimprovisation(即興演奏)が好きなのかわからない。
と、言ってる自分も即興が大好きであり、人生の多くの時間をそれのために費やしてきた。
それにも関わらず、なぜ自分が即興演奏を好きなのか理由がわからない。
「音楽とは言語に近い存在である」という思いはかなり昔から確信を持っている。
だからimprovisationこそが自然な会話であり自然な表現がもっとも露骨に表れるはず。
きっとそれは間違いないと思う。
だがしかし、
自然なおしゃべりが一番優れた表現方法かどうかは疑問が残る。
ショー、芸術、文学、推敲して傑作を練り上げるものが圧倒的に多い。
それから、おしゃべり能力には個人差もある。
たわいのないおしゃべりが上手な人もいれば下手な人もいる。
優れたビジネスプレゼンテーションができる人。結婚式のスピーチで発作を起こす人。
無口だけどブログでは饒舌な人。
いろいろある。
にも関わらず
ジャズを志すと全ての人が"たわいのないおしゃべり上手"を目指す。
なぜなのだろうか?
本気でわからないので、誰か教えて下さい。
今日思いつくところ、この文化は建設的な人格と傲慢な人格と両方で成り立っているような気がする。
それでは建設的な意見どうぞ、
「状況に応じて的確なリアクションが取れるような演奏を目指せるから即興は素晴らしい」
「真にリラックスして演奏したときに生れるアーティキュレーション、それに全てをささげます。」
「譜面に書き起こすほどのことでもないつぶやきやアイデアを絶妙なタイミングで繰り出すと、
予定調和型では体感することのできないグルーブ体験が時々起こるのです。」
傲慢な意見どうぞ。
「ちょっと行為自体が難しいから燃えるじゃん!?」
「だって、即興かっこいいじゃん!?かっこいいよね!?あれっ!?」
「拙者、そこに山があるから登る、それだけのことでござる!!」
「グリップ走行(書き起こし)のほうがタイムアタックでは有利だけど、ドリフト走行(アドリブ)のほうがかっこいいからついつい!?」
半分冗談だが、半分は本気で、この傲慢さが人々に憧れを誘ったのも事実だ。
チャリーパーカーは、多くの人の共感を誘うような流線型の音列で人々を魅了しつつ、
とはいえ多くの人には真似できない難解な技法を即興演奏で提示した。
この共感できそうで完全にはできないモノをたしなむことができると、なんだか知的な人になったような気がしてくる。。。これが傲慢がエスカレートする歴史の幕開けかもしれない。
ジャイアントステップでアドリブがとれるとどんないいことがあるのか?
難しい変拍子に対応できるとどんないいことが待っているのか?
その試行錯誤でベストミュージックが生れるかもしれないし、生れないのかもしれない。
わからないけど、
とりあえず私はできるようにしておかなければいけないような衝動にかられる。他にとりえも無いから(笑)
***演奏スケジュール***
******公開音源******