以前の音楽コラムに共感してもらえない場合、この文章はさらにエスカレートしているため意味のわからんお経みたいなものに見えるかもしれない。
↓ビバップについて
https://shin-ichiromochizuki.blogspot.com/2022/10/bebop.html
↓クラシック vs ジャズ
https://shin-ichiromochizuki.blogspot.com/2022/02/improvisation-and-imagination.html
ビバップを得意としている人がモーダルな曲やフリーインプロに取り組むとでくの坊になってしまう現象がある。若い時の自分もそうだった。っていうかいまだにブルースを弾くことが出来ない(笑)これは「自由すぎて辛い」というよくある現象なのである。
現在の自分はフリーインプロも大好きなのだが、上記のような話はとても共感できる。逆に、難しいコードチェンジに追従できるプレイヤーを崇める風習を見かけるが、アレには感心しない。コードチェンジとは音楽的なアイデアのひとつであり、インプロバイザーにとっては情報源、ヒントを与えてくれる。コードチェンジは愛、コードチェンジはやさしさ、と思ったほうが良い。
ちなみに、フリーインプロの世界でも同じような価値観が渦巻いているのである。「こういうアイデア、こういうルール、試してみよう」、「共演者がそこに行ったということは、自分はここに行くべきだ、そうに違いない」、「なんだ今の音は?何を示唆しているのだろうか?」、「根拠のない音は発したくない」身に覚えがないだろうか?自由にやれと言われれば言われるほど自分の音に理由や裏付けを探している、それは自然な行為だと思う。まれに、耳を澄まして音を聴くと自動的に自分の役割が決まる、という賢者モードに入るが、なかなか簡単にはその境地には行けない。
ジャズミュージシャンのことをイタコのような存在だと勘違いして人がいるが、実際はそういう感じではない。天からはなにも降りてこない(笑)無からはなにも生まれない。精神的には自由を目指しているのかもしれない。でも技術的にはむしろ逆だと思う。ルールや制約をリアルタイムに決断して自分にあてがう技術だと思う。ドMに向いてる。。語源は知らないが、「旋律を奏でる」の「律」の文字に着目すると感慨深いものがある。